木を見て、森を見ず。
KEC Emi: まさにそのとおりです。「木を見て森を見ず」。たぶんkjさんの場合は「木」どころか、枝だとか皮だとか葉っぱの葉脈だとかを見ることにすごく長けていらっしゃるんだろうと思います。ただ、特にまとまったリスニングをする場合には、「森」を見ることが重要になってくるので、そのスコープを広げるための工夫をしていかれるといいかなと思います。一つには、「あ、きっとこの人は苦手だ」って初めから決めないということ。もう一つは、自分が細かく分析しないための工夫をして、場面を整える。そうすると、「森」が見えてくるかもしれないなと思います。
kj: なるほどー。いやぁすごい、すごいです。
KEC Emi: 笑 そうですか。
kj: 本当に。なるほどなー。いやぁそうですねー。
KEC Emi: その感覚を、今はたぶん想像できてると思うんですけど、もししばらく経って忘れちゃって、「どういう感覚だったかな」って思ったら、日本語で考えてみてください。日本語を聞くときに、私たちはネイティブなので、放っておいても聞こえてきますよね。それが「森」の感覚です。その感覚はもう持ってらっしゃるんです。もし一語一句を分析し始めたら、日本語も「森」では聞こえてこないはずなんですね。だから時々、日本語を聞いている感覚を思い出して、「これだな、この感じで英語を聞いてみよう」っていうふうにされると、英語のリスニングにも応用が効くんじゃないかと思います。
kj: なるほどー。いやぁ。ありがとうございます。いや、すごい、すごい勉強になりました。
KEC Emi: 笑 そうですか。
kj: そうなんですよね。やっぱりその、葉脈であるとか、細かいところばっかり見すぎちゃって、分析で終わっちゃうっていうのがすごくあるので。もっと広い目で見るってことですよね。
KEC Emi: そうですね。分析については、やはりそれはご専門で必要ですからね。言葉一つ一つの使われ方だとかニュアンスの違いだとか、細かいところまで見ていかないといけない分野でしょうから、どうしてもそうなりやすいんだと思います。ただ一方で、やはりそれだけでは回っていかないところもあるわけです。笑 力はお持ちなので、せっかくの力を封じ込めてしまわないように、できるだけ効率よく開けるように、環境を整えていくっていうのが大事かなって思います。
kj: いやー。そうかー。はい 笑
「文字」と「音声」。
KEC Emi: 2つめは、文字と音声についてです。最初から伺っているとおり、読み書き、つまり文字の情報にはすごく強くて、音声の情報には苦手意識がある。時間的にも音声にはあまり割けていないということでした。それで、「得意」「不得意」ということとあわせて、文字と音声がとても離れているなという感じがしました。たとえば先ほど、「TOEICで、日本の人はだいたいリスニングが高くて文法が低い」っていうお話がありましたよね。
kj: って言うんですよね。笑
KEC Emi: ただ、実はそれってkjさんが思うより僅差なんです。どっちもズバ抜けてできるわけではないけど、どちらかというとリスニングの方が、まぁちょっと、何となくできる、ぐらいのことなので、差はあるといっても小さいんです。
kj: うーん。
KEC Emi: kjさんの場合は、リスニングが決してひどく低いわけではなくて、読み書きがものすごく高いので、その差が大きく見えているっていうことだと思います。逆に言うと、もし文字に対する意識なり、読み書きの速さや正確性なりが低ければ、リスニングと同じくらいになるわけですね。
kj: うーん。
KEC Emi: でも、読み書きの力を下げるのには意味がないですから、高いものは高いまま維持していただけばいいんです。ということは、この「文字」と「音声」の差っていうもの自体に、あまり意味がないってことですよ。「読み書きに比べてリスニングが苦手」ではなくて、「読み書きが非常に得意。以上」でいいじゃないですか。
kj: あー。笑 なるほど。それいいですね。
KEC Emi: だって読み書きはご専門ですし、そういうことに長けている方に研究していただかないと、文学研究は進みませんから。笑
KEC Emi: それは認めればいいと思うんです。今のように、自分の中で格差みたいなものを作って、「この文法の高さに対して、このリスニングの低さはなんだ!」とか叱ったりしちゃうと、やっぱり気持ちが萎縮してしまいます。そうではなくて、「リスニングは人並みだ」と。「ただ読み書きがものすごく優れてるだけだ」と。そういうふうに変えていかれるといいかなと思います。これも意識の変革の一つですね。
kj: はい。
(つづきます)
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